辛かった不妊治療
結婚してから2,3年たった時、そろそろ子供が欲しいと夫に言った。
そのとき30、31歳くらい。
夫は子供はお金が必要だから、もう少しお金が貯まったらにしようと断られた。
それは正論かもしれないけど、子供が欲しいという気持ちをあっさりと拒否されて、気が狂わんばかりだった。なんどもそのことで喧嘩をした。すぐに妊娠するとも限らない。早くしないと出来なくなってしまうのではという焦りがあった。
貯金の目標金額を決めて、その額になったらという約束でなんとか話の決着がついた。
しかし目標金額になってから、いざ子供を作ろうとしても、さっぱり出来なかった。
なので、病院に行ってみた。そのとき32歳。
自然妊娠が難しいことがわかり、不妊治療を開始した。
義両親や親戚、自分の母親に子供はまだかとやはり言われていた。会社の上司にまで言われたことがある。
作りたくても出来ないのに・・・作ろうと頑張って病院に通っているのに・・・辛い言葉だった。
タイミング法2年、人工授精3回ほど、かすりもしなかった。
体外受精にステップアップした。病院通いをしながら会社務めはきつかった。採卵周期は1日おきに病院に行かなければいけないので、その度に半休取っていた。
薬を飲んで卵をたくさん作り、排卵直前に採卵する。
しかし卵の成長が不良だと、採卵中止となり、また最初からやり直し。生理を待って、また卵子をたくさん成長させるための薬を飲んで、排卵直前に採卵・・・。
私は1回目も2回目も採卵に挑むことができなかった。この悔しさといったらない。
会社に最初は不妊治療のことは言っていなくて、体調不良だと言っていた。でも部長に「不妊治療だろ?」と白状させられた。会社のみんなには知られたくないことだ。でも口の軽い部長なので、みんなにばれていただろうなあ・・・。
採卵3回目、ようやく卵子を採卵することができた。そのうち受精して胚盤胞まで行ったのもあった。
凍結胚盤胞の移植1回目、不成功。
凍結胚盤胞の移植2回目、着床したが流産した。
凍結胚盤胞の移植3回目、不成功。
4回目、着床したが出血が止まらず、切迫流産となった。2週間の絶対安静となった。
1週間の絶対安静生活をした後、ものすごい量の出血をした。500ccくらいは出たと思う。流産だと思った。
病院に行って診察してもらったら、驚くことにまだ胎芽が存在していた。
この後絶対安静生活を1週間してから、出血はほとんど止まった。
1ヶ月くらい病院で様子をみた。胎児は順調に成長していった。それから病院の卒業となり、産院へ移った。
自分の両親に、夫の両親に、夢にまで見た「子供ができた」報告をした。2012年の冬、36歳だった。
病院通いを始めたのが2008年。32歳。
約4年間。長かったな、頑張って通ったな。
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今では孫を溺愛している義両親。
産院で出産後、4泊5日の入院中は毎日見に来た。
退院後、私が仕事に復帰するまでの1年間、火曜日と金曜日の週2回、欠かさず孫に会いに家に通ってきた。車で40分ほどの距離だ。来れないときは曜日をずらした。
仕事に復帰してからは週1回。
孫に会うと、ひと時も傍を離れない。
本当に生き甲斐だ。ここまで孫を愛してくれるとは、本当にありがたい。しかし本音を言うと、少々息が詰まるときがある。でもその姿は、私の忍耐の不妊治療は間違っていなかったとつくづく思う。